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西行画

西行(さいぎょう)。

本名は佐藤義清(さとうのりきよ。範清、則清とも書きます。)。

歌人、真言宗の僧。

法名、円位。

大宝坊、大本坊と号しました。

父は、左衛門尉(さえもんのじょう。皇居周辺警備官。)・佐藤康清、母は、監物(けんもつ。皇室財産出納監察官。)・源清経の女(むすめ)。

父・康清は、あの俵藤太(たわらとうた)の九代目たる武勇の人物、母の父・清経は、『梁塵秘抄口伝集(りょうじんぴしょうくでんしゅう)』などに登場する、今様(いまよう。当時、宮廷で流行した歌謡。)や蹴鞠(けまり)の名手かと考えられ、西行には文武両道の地が流れていたといえます。

元永元(1118)年生まれ。

兄弟としては、異母兄・仲清(後に内舎人<うどねり。皇居内の雑役係>となる。)がいます。

幼時に父と死別。

18歳のとき、成功(じょうごう。自分の財産を朝廷の事業に寄付した人が、官位を授けられること。)によって、兵衛尉(ひょうえのじょう。皇族警護官。)となります。

西行側が献上した財産は、絹織物1万匹(『匹』は布の面積を示す単位。1万匹は約46.200平方メートル。)。

20歳の頃、鳥羽院の北面の武士(上皇警護官)に任ぜられ、結婚して2児をもうけますが、23歳にして突然出家。

その折、俗世への煩悩を断つため、4歳の娘を縁の下の蹴り落としたと伝えられます。

出家の理由は、失恋説、時代不安説、遁世(とんせい。世を避けて仏門に入ること。)願望説などがありますが、不明です。

西行木像

文治6(1190)年に72歳で没するまでに庵を結んだ地は、高野山、伊勢、嵯峨、最後が河内国弘川寺(かわちのくにひろかわでら)。

行脚(あんぎゃ)した土地も、陸奥、四国、中国、関東と、全国に及びます。

同年齢の平清盛や次代の雄・源頼朝とも会っています。

花と月を愛し、京都歌壇に阿(おもね)らず、奔放に自分の歌を詠みました。

保元の乱で敗れた崇徳院(すとくいん)が剃髪されれば、仁和寺(にんなじ)に馳せ参じてこれを慰め、東大寺が戦火に倒れるや、平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとへ再建資金を調達すべく急行します。

私欲からはおよそ無縁。

願はくは花の下にて春しなむ そのきさらぎの望月のころ

訳:願いが叶うならば、桜の花の下で春に死にたい。あの釈尊(しゃくそん。お釈迦さま。)がお亡くなりになった2月の満月の頃に。

『山家集(さんかしゅう)』に収められたこの歌で自身が望んだとおり、釈迦入滅(しゃかにゅうめつ。釈迦の死去。旧暦2月15日。)に合わせたかの如く、2月16日、桜花の下で大往生を遂げました。
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Mr.NAO

Author:Mr.NAO
東京都港区出身 
男性 
水瓶座

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