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ラジオ
写真:ラジオ出演する火野葦平(昭和15年)


火野葦平(ひのあしへい)。

作家。

1907(明治40)年1月25日、現在の北九州市生まれ。

1960(昭和35)年1月24日、同地で死去。

享年53歳。

本名は、玉井勝則。

早稲田大学英文学科中退。

労働組合活動中、特別高等警察に逮捕され、転向。

31歳のとき、兵役に就きながら書いた『糞尿譚(ふんにょうたん)』で芥川賞を受賞。

その後、兵士として派遣された中国の戦地に取材した『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』三部作が300万部のベストセラーになり、国民的人気作家に。

その火野葦平が、昭和35年1月24日に亡くなったとき、死因を病気だと信じなかった者は誰もいませんでした。

実際、遺族からは「高血圧による心筋梗塞症のために死去」と発表されていましたし、彼の健康が徐々に害され始めていたことも、周知の事実だったからです。

しかし、1972(昭和47)年、実は彼の死が睡眠薬自殺によるものだったことが明かされ、火野を知る人々は一様に仰天します。

頑健そのものであった嘗ての陸軍伍長のイメージは、自殺などという行為とは正に水と油。

何かの間違いでは、という思いを皆が抱きました。

しかし、現実には死の1年ほど前から、火野は自ら命を絶つことを考え始めていたように思えます。

資料をいくつか挙げてみましょう。

座談会
写真:文士による座談会  左から菊池寛、火野葦平、横光利一、久米正雄


1「舞台で俳優がたおれることをいとわないように、わたしはペンを握ったまま、いつた
  おれてもかまわない覚悟を定めている。」(昭和34年4月10日、選集第8巻解
  説)

2「べつに用はない。君の声をききたかったんだよ。」(昭和34年12月21日、原田
  種夫への電話で)

3「自分が傷つかないでは、いい作品は書かれない。」(死ぬまで変わらなかった口癖)

4「そうか、そんなら。」(昭和35年1月20日、ある会合の後で原田と別れる際に)

5「あすは日曜だが、朝の十時に電話してくれ、大事件が起こるから。」(昭和35年1
  月23日夜、小堺昭三への電話で)

「大事件」とは、無論己の死のことでしょう。

自殺の予告です。

また、死去の日である1月24日は、彼の戸籍における出生日の前日に当たり(実際の出生は12月3日)、区切り目の付いた日に死のうとした、計算のようなものが感じられます。

書斎
写真:北九州市の自宅で執筆する火野葦平


後に、自宅から決定的な証拠となるものが発見され、彼の自死は間違いのない事実とされました。

それは『HEALTH MEMO』と題されたノートでした。

そこに書かれていた文章です。

死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」

自殺の原因については、諸説あり今もって判然としていないようです。

1月に生まれ逝った作家ということで、考察してみました。

改めて、ご冥福をお祈り申し上げます。

写真は新聞社等のサイトから拝借させていただきました。
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Mr.NAO

Author:Mr.NAO
東京都港区出身 
男性 
水瓶座

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