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伊藤左千夫

いとう・さちお。

1864〜1913。

歌人、小説家。

本名、幸次郎。

千葉県出身。

明治法律学校(現・明治大学)中退。

東京で牛乳搾取業を営みながら作歌を始め、後、正岡子規に師事。

師の遺志を継いで雑誌『馬酔木(あしび)』『アララギ』を主宰。

短歌『水害の疲れ』、小説『野菊の墓』、歌論『新歌論』などがある。


伊藤左千夫の晩年もまた、度重なる悲劇的事件に翻弄された数年間であった。

母の死(明治37年)、父の死(明治40年)の後、堅川の氾濫による水害に遭遇(明治40年8月)、明治42年5月には1歳6か月の七女・奈々枝が、自宅付近の池に落ちて溺死するのだが、これを皮切りに肉親の訃報が打ち続く。

同年7月の義姉の死以降、甥、甥の娘、姉らが次々と世を去り、伊藤は半年の間に7回も葬儀に参列したという。

そして、更に明治43年8月、前回を遥かに凌ぐ大洪水に見舞われるに及んで、伊藤の物心両面における打撃は決定的なものとなる。

当時の伊藤家は、もともと借財を抱えていた。

先の水害で家計が逼迫していたのにもかかわらず、伊藤の永年の夢であった茶室の建設を強行するべく、その資(もと)を多額の借金に求めたのである。

ところが、そこにまた天災である。

予め水禍に備えて高床式の設計を施した努力も空しく、念願叶った離れの茶室・唯真閣(ゆいしんかく)は、完成からわずか3か月にしてあっけなく潰滅してしまった。

床上120センチもの浸水をもたらした大水は、伊藤が生活の糧として育んでいた20頭の乳牛をも脅(おびや)かして、彼らの乳量を半減させたばかりか、家屋の修復に60日もの日月を要せしめた。

借金は益々かさみ、伊藤は文学を捨てて酪農業に専心しようかと深刻に苦悩するようになる。

しかし、結局、彼は逆に文学に自己を投入させることで精神的な起死回生を図ろうとし、血を吐くような思いをして金を返済しながら、啄木論や牧水論、『我が命』や『分家』を次々と発表していった。

「自己の生存上、どうでも歌と小説を作らねば」(『去年』)という思いで。

死の僅か1、2年前のことである。
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Mr.NAO

Author:Mr.NAO
東京都港区出身 
男性 
水瓶座

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