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2009/10/31 11:34:45

走る夜の列車の中で、西山さんは郡司さんの講演を収めたCDを聴きました。
その中で、郡司さんは自らの生い立ちから結婚、出産というように年を追う形で、歩んできた人生について淡々と語っていました。
特に西山さんと出会ってから現在までの話は、正に忍耐と苦悩と努力に満ちた激動の十数年で、西山さんは必死に涙をこらえながら聴き入りました。
「・・・娘が産まれて直後に、主人が交通事故で急死しました。
まだ若かったので貯金もなく、私にあるのはわずかなパートの収入だけでした。
初めは娘を託児所に預けて働いていたのですが、やがて、その託児所代も払えなくなり、パートを辞めざるをえなくなりました。
それで、やむなく生活保護を申請しました。
でも、お金が下りるまでには、ずいぶんと時間がかかりました。
娘はすぐに熱を出したりして体がとても弱かったのですが、満足に病院に連れて行くこともできないほどの経済状態となりました。
娘が高熱に冒されて泣いているのに、私は何もできませんでした。
両親は既になく、兄弟姉妹もいませんし、親戚は遠くに住んでいます。
何人か友人に相談しましたが、お金のことになると、みんな急にイヤな顔をして、次第に疎遠になっていきました。
私は、娘といっしょに死のうと思いました。
それで、なけなしのお金を握って、ある地方の山間の町に行きました。
しかし、どうやって死のうか考えながら歩いているうちに夕方になってしまい、もういっそのこと山に入ってどこからか飛び降りようと決意して、登山道の入り口にたどり着いたとき、おぶっていた娘が突然大声で泣いたのです。
娘を抱きしめて、私も泣きました。
誰もいない、山道の入り口にしゃがみこんで、声を上げて泣きました。
私はどうしていいかわからなくなってしまって、たぶん、ふらふらと町の方に歩いて行ったのだと思います。
気が付くと、小さな旅館の前にいました。
旅館の前には女将さんらしい女性がいました。
私は、なけなしのお金を使い果たして、人生最後の夜を娘とここで過ごそう、と思いました。
で、泊めてもらえるか、と聞きました。
思えば、あのとき、あの女将さんと出会っていなかったら、間違いなく、私は今ここにいませんでした。
死んだ後で身元が明らかにならないように、宿帳にはいいかげんな偽名を書きました。
それなのに、旅館では、宿代を格安にしてくださったのにもかかわらず、素晴らしく美味しいお料理と、それはそれは温かいおもてなしをいただきました。
女将さんとご主人は、本当に良い人でした。
暗い表情で突然やってきた、よそ者の若い母親と赤ん坊に対して、穿鑿めいたことはいっさい聞かず、それどころか、私たち母子を心から気遣ってくださるお気持ちがひしひしと伝わってきました。
私はその晩、娘を抱いて布団に入りながら、本当にありがたくて涙が止まりませんでした。
こんなに優しい人たちがいたんだということに、私は初めて気が付きました。
お土産まで頂戴し、旅館を出た後、娘をおぶって歩きながら、涙がとめどなく溢れました。
泣きながら、もう一度、やってみようか、と思いました。
歯を食いしばって、この子のために、やってみようか、と思いました。
しかし、宿代を払ったら、手元には3千円しか残っていませんでした。
そのお金で、私は各駅停車の列車に乗り、うちに帰りました。
主人の死後、引っ越したのは、6畳一間のアパートでした。
働く当ては全くありませんでした。
うちに着いたのは夜中でした。
娘を寝かしつけて、お土産の手提げバッグからおそばとワカメを取り出してみてびっくりしました。
なんということでしょうか。
私が払った宿代のお金が、封筒にそっくり入っていて、バッグの底に忍ばせてあったのです。
千円札が5枚。
汚い、しわくちゃの千円札でした。」
つづく
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